(6)「寿司屋」
1980年頃、私は5年ほど寿司屋をやった。といっても私はグラフィックデザイナーなので、店は妻に任せていた。

千葉県松戸市の自宅の1階を改築し、カウンター8席、小上がりに1テーブルだけという小さな店だ。

早速、新聞に板前募集の広告を出した。3人の応募があり、その中の一人、椎野肇君を採用した。椎野君は、高校を出てからずーっと割烹料理屋で修業を積んできた江戸川区小岩出身で、25歳、身長180cmを超える長身で、大の巨人ファンだった。

店は住宅地にあった関係で結構出前も多かった。板さん(椎野君)は、割烹料理をやっていたこともあり、刺身の盛りつけなど見た目にも鮮やかで、お客の評判もすこぶる良かった。朝早く魚市場へ行き、そして仕込み、店を開けての接客、手が空けば自ら出前や洗い物なども積極的にやるという好青年だ。

私は文京区湯島の方にデザイン事務所を持っていたので、帰宅は結構遅い日が多かった。そんな日は大抵お造りがゲタ(刺身などをのせる板)にのって出てきた。(あの頃は本当に贅沢だったなあ)。

休日には私も店に出たり、出前を手伝ったりしていたが、店では、お客に日本酒とお酢とを間違えて出してしまったり(このときは常連さんだったので笑って済ませた)、出前では車にぶつかって飯台ごとひっくり返ったり、お釣りを間違えたりと、いろいろなことがあった。

ここで板さんから聞いた寿司屋についてのうんちくを少々…
寿司屋というと「入りにくい」、「ネタの名前が分からない」、「値段が分からない」など心配ごとが多いが、まず、店に入ってどこに座るか、ということ。一人前を食べて帰るという人は心配ないが、お好みで食べようという人は、やっぱりカウンターということになる。

馴染みの店でない場合、「いらっしゃい」と言われて、ど〜んとカウンターの真ん中へ座るのはちょっと??である。カウンターの真ん中は、常連客、上得意の指定席なのである。板さんに(ああ、この人はあまり寿司屋には行かない人だなあ)と思われる。

以前、TBSのテレビかラジオで、2組のカップルが銀座の寿司屋に行き、1組はど真ん中に、もう1組は遠慮がちに端に座り、注文は2組とも全く同じものを食べるというシチュエーションで放送をしたことがあった。
結果は、ご推察のように真ん中組が?千円高かったのである。このことを板さんに話したら、板さんいわく、
「それは真ん中の客には上等のネタを出すからだよ。同じトロでも特に美味しいところを出すから値段も違ってくるんだよ」とおっしゃる。そう言われればそれまでである。

そして、こんな人はまずボラれることを覚悟した方が良いだろう。女を連れてど〜んとカウンターの真ん中に座り、あれやこれやと寿司の講釈を垂れる人である。
「やっぱりマグロは生に限るよ」とか、「鯖は関鯖、あれはミル貝だよ」などなど。そして、支払いの段階になって(ヒェーッ高い)と思っていても、
「何だ、今日はあまり食べなかったね」かいう奴である。
カウンターで安く、美味しく食べるコツは、真ん中は避けて、板さんに、
「今日は何が美味しいですか?」とか、
「その白身の魚は何ですか?」とか、板さんとコミュニケーションをとりながら、決して“知ったかぶり”をしない…、何たって板さんはその道のプロなんだから。

最近は回転寿司のように、すべてに料金を明記してある店が多くなり、その心配もなくなりつつあるようだ。

そして、よくお客さんに聞かれることに「何から食べたらいいの?」である。よくタマゴから食べればその店の味が分かるといいますが、今はその店でタマゴを焼いている店は少ない。板さんは、「食べたいものからたべるのがイチバン」という。もっともである。

寿司は築地だとか、三崎のマグロだとかいわれるが、それは鮮魚を扱っていた昔の話で、冷凍技術が発達した現在では、日本中、山の中でも美味しい店はたくさんある。現に、私の那須にある別荘近くのスーパーの刺身はいつも新鮮で美味しい。

背が高く、男前で、腕もいい板さんだが、彼女がいなかった。そこで、私が独身女性四人を店に連れて行き、その中から選ばさせた。180cm以上ある板さんが「付き合いたい」と言ったのは、150cmそこそこの娘だった。気さくでしっかりした娘だった。彼女も「付きあいたい」ということだった。

それから3ヶ月ほどで二人は結婚、当然私が仲人をした。

寿司屋も5年ほどで店を閉めた。それなりには儲かっていたが、板さんが独立したいといい、妻も疲れたというので、店を売って現在の家を購入した。板さんも小岩に店を出し、奥さんともども頑張っている。

最後に私の好きな寿司の巻物を紹介しておこう。ガリ(生姜)と大葉(シソの葉)をのりで巻くという単純なものである。さっぱり、シャキシャキ感があり、仕上げに食べるのにもってこいである。(0402)