(1)「あだ名」
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私の田舎は、山形県大石田町次年子(じねんご)である。小学校、中学校は同じ校舎で、生徒数は合わせて300名ほどだった。その中で最も有名だったあだ名があった。「金太」だ。何を隠そう私のあだ名である。
小学校に入るまでは「ドケ」と呼ばれていた。子供のくせに、おどけたり、とんちの利いたことをいう面白いガキだったらしく、周囲の人からは、ドケ、ドケと呼ばれていた。これは「道化者」をつめて「ドケ」になったことを後で知った。
小学校に入って、グランドなどに土俵の丸を書き、よく相撲をとった。クラスは42名、背の高さは高い方から2番目、スポーツは好きで一応何でも人並みにはできた。相撲も好きで結構強く、上級生にもよく勝っていた。得意技は、もろ差しからの突き落とし。相手の力を利用しての技で、度々鮮やかに決まった。
その頃は顔も丸く(今でも丸い)、みんなによく「金太郎」と呼ばれていたのである。これがそのうちにまたまたつめられてしまったのである。「金太」である。私はこのあだ名が大嫌いだった。何か武骨で頭が悪そうで、第一馬鹿にされているようではないか。
村の名字の大半が、森、遠藤、斉藤で占められ、学校での呼び名も名字ではなく、普通名前の方、私だったら「俊夫君」と呼ばれる。ところが私の場合、上級生は勿論、女生徒から下級生、はたまた先生までが「金太」、「金太」と呼ぶのである。これはどうみてもニックネームなんて可愛いものじゃない。“あだ名”そのものである。庄屋の下働きか、捕物帳かヤクザの子分である。
父は、町会議員で農協の組合長でPTA会長、いってみれば村長さん的人物だった。戦争中は近衛兵として天皇陛下を守っていたのだ。その息子が「金太」ではあまりにも情けない。
しかし、思いとは裏腹に学校中、いや村中に金太のあだ名が広がっていた。
あだ名にまつわるエピソードも数多い。
5年生の頃、近所に住む2年生の勉君が新聞をもって飛んできた。
「金太が新聞に載っている」というのだ。
その新聞には“金田10勝一番乗り”とかいう大見出しが踊っている。そうです。あの国鉄スワローズの金田正一投手の全盛期だったのです。
それからは、金田投手の新聞、雑誌の記事が気になるようになり、以来、国鉄→サンケイ→ヤクルトと、自他ともに認めるヤクルトファンなのである。
また、中学生のある放課後、女生徒が先生に「俊夫君はどうして金太なの?」という質問をしたときのこと。先生は「間が抜けているから…」と言ったのである。一瞬ポカ〜ンとしている女生徒に「キンタにマをつけてごらん」…、次の瞬間ドッと大爆笑、以来ますますあだ名が嫌いになった。
上京して学生時代は、自ら「トシ坊」と言い触らし、みんなにそう呼ばせた。当時は坊ちゃん気取りだったが、今はちょっときまりが悪い。 (0306)
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